日本語/English

 

 別府の町は今日も肩がぶつかりもみくちゃになるほど人が溢れている。人ごみに揉まれるのも、天狗は嫌いではなかった。むしろ楽しく感じた。人間たちの中に人間ではないものが紛れ込んでいるさまを想像すると、なんとも言えない可笑しさがこみあげてくるのだった。

今日はどこまでも流されるまま歩いてみよう、天狗はふと思った。なかなか面白そうではないか。群衆に身をゆだねて歩いていくと、活気のある中央市場を抜け、商店街を抜けて、橋が見える。夢と現の境橋。冗談めかして誰かがそう言っていた。

橋の隅に、ひとり、娘が立っていた。凛とした佇まい。つやのある髪、白い肌、切れ長の瞳。天狗はしばしその娘の姿に見とれた。美しい娘だ、と天狗は思った。視線に気がついたのか、一瞬娘と目が合った。天狗は慌てて目をそらした。顔が熱くなるのを感じた。流されるまま天狗は橋を渡っていく。物憂げな娘の横顔を盗み見ながら。

それから天狗は来る日も来る日も、橋を渡りに人ごみに揉まれた。娘はいつも橋の欄干の隅で遠くを見つめ立ち尽くしている。誰がぶつかろうが話しかけようが気に留めない。何かを待っているようだった。天狗は娘のことが気になってしょうがなかった。

 ある日天狗はいつものように人間の男に扮し、さりげなく娘に話しかけた。

「お前さんはどうしていつもこんなところにいるのだ」

娘は遠くを見つめたまま、言葉を頭の中で巡らせるようにしてゆっくりと答える。

「人を待っているのです」

「それにしても長いこと待たされているな」

「ええ。いつまでたっても来ません」

「くたびれるだろう」

「いえ、そうでもありません」

 娘は苦く笑い、こちらを振り向いた。あでやかな唇がゆがむ。

「さみしい女と思われるでしょうが、来やしない好きな人をここで待ち続けることが幸せなことなのです」

 

 長いまつげが目元に影を落とした。美しい人だと、天狗は思った。

 天狗は普段山に棲む。温泉を育む神の山だ。

一羽のカラスが天狗のもとに飛んできた。天狗の広い肩にちょこんととまり、羽根をたたむ。天狗の子分だった。

「男は生きているのか」天狗は尋ねた。天狗は娘の待つ男の行方を捜していた。

「死んでいます。病死のようです」

「そうか」

カラスは天狗に詳細を告げた。天狗はため息をついた。

「人間と深くかかわるのはよくないですぞ」

山の物の怪の長老が釘を刺す。天狗は何度もうなずいた。

「そうだな。わかっている」

神はこの地の平和と安寧を守っている。人も妖怪も、お互いの存在を脅かすことは許されない。もしも世界の均衡を崩してしまえば、神は死に、大地は再び火を噴くことだろう。それに、天狗はこの町の守り神になると決めた。神が人に思慕を募らせるようでは話にならない。

再びため息をつきそうになるのを天狗はぐっとこらえた。

「人間は摩訶不思議な生き物だ。時に生きていることを忘れる。生きていることよりもよほど大事なことがあるらしい」

「しがらみと言うやつです」

「ほう?」天狗は長老を見やる。長老は険しい表情で天狗を見返した。

「愛情であろうが恨みであろうが、拭わなければ、そこに囚われます。人間はいつか死にます。囚われたまま死ねば永遠にそこから抜け出せぬでしょう」

「魔に堕ちるのか。おれのように」

長老はしゃがれた声で答えた。

 

「地獄かもしれませぬ」

 天狗はいつものように娘の佇む橋へと赴いた。洋服に身を包み、娘の待つ男に変化して。

 天狗の指先は小刻みに震えていた。まさか自分がこんなことで震えるとは。踏みしめるように歩く。慣れない革の靴がこつこつと橋を鳴らす。

娘がこちらに気が付いた。目を凝らすように見つめる。

 やがてはっとした表情になり、娘の両目から大粒の涙がこぼれた。天狗は胸が締め付けられるような痛みを感じた。

「お待ちしておりました」

「待たせてすまなかった」

「さあ」

 女は男の手をとろうとする。しかし空を切るのみで男の手を握ることはかなわない。男は首を横に振った。

「お前に触れることは出来ぬのだ」

「どうしてです」

「おれはもう死んだ。最期に逢いに来た」

 娘は目を見開いた。

「もう、行かねばならない。お前はおれのことなどすべて忘れなさい」

「できません」

 娘はかぶりを振った。

「私も死にます。あなた様がいないのに生きる意味なんてありません」

「ばかを言うな」

「でも」

 娘は訴えるように男の目を見つめた。天狗はかみしめるように言った。

「さよならだ」

 瞳が揺れる。やはり、美しい目だと天狗は思った。

 娘はこぼれそうになる涙を必死にこらえながら精一杯微笑んでみせた。

「さよなら」

 男は消え失せた。

 娘は呆然と立ち尽くした。

 わけがわからなかった。長らく待っていたにも関わらず、あまりにも突然過ぎた。まるで、夢のようだった。

「一体これから何を生きがいに生きねばならぬのです。この町も、自分自身も、大嫌い。あなたがいたから」

 絞り出すように吐いた独り言は喧騒にかき消されていった。

 足元にきらりと光るものがあった。黒い羽根が一枚落ちていた。娘はそれを拾い上げ、大事にしまった。

 夕暮れたそがれ時、日はすでに傾いで山のむこうに隠れてしまった。夢と現をつなぐ橋、名残橋は人の往来激しく、人工的な明かりが煌々と灯り、街は妖しい熱気を帯びていく。

 

 

 その日から娘は欄干から消えた。

 もしや後を追うつもりなのではないかと天狗は不安になったが、羽根は何も反応を示していないようだった。黒い羽根は天狗が落としていったものだった。あの羽には呪力が込められている。娘の身に危険がせまったとき、瞬時にわかる。

 娘は男の正体が天狗であることなどつゆ知らず、羽を大事そうに仕舞っていた。

 天狗はゆがんだ喜びを感じる己を情けなく思った。

 何をしていても、どこにいても、思うのは娘のことばかりだ。思うたびに胸が苦しくなる。しかしそれが許されざることだというのは誰よりも一番天狗がわかっていたことだった。

「おれは孤独だ」

 天狗は独り言ちた。

「人でもない。神でもない。だというのに、人のような心を持ち、神に通じる力がある。おかしな話だ。否、おれがどうであるかなどはどうでもいいことなのだ。ただ前に向かって生きていきさえすれば」

この地は神に守られている。天狗のような魔物も、善く生きようとすれば受け入れられる。

天狗のやるべきことはすべて済んだ。天狗は長い溜息を吐き出した。

 

「風呂にでも行こう。全て洗い流すのだ」

 風の強い夜だった。冷たく乾いた風が山から吹き下ろしていた。

未明のこと、夜だというのに辺りが妙に明るくなった。鐘の音が響く。火事だ。明かりの消し忘れか、煙草の不始末か。もともとは小さなぼやであったのだろう。しかしこの町は木造の家屋がひしめき合うように立ち並んでいる。煽るように鋭く風が吹けば、火の粉はまき散らされ、連なる長屋はごうごうと唸るようにして燃える。

 娘は燃え盛る女郎屋の中に取り残されていた。自ら逃げなかった。むしろこの時を待っていたようなものだった。

これであの方と一緒になれる。娘は恍惚とした。この忌々しい場所から抜け出すことができる。この空っぽな毎日から。

娘の体を舐ろうとこまねく炎の熱さも、もはや娘にとっては何でもなかった。早くこの身を焼き尽くして欲しい。骨の髄まで焼いて、存在さえなくなってしまえばいい。

燃え盛る炎に耐え切れなくなった柱がぐらりと傾いだ。そのまま娘の方へ倒れていく。

そのとき、娘は人の気配を感じた。

自分の体に覆いかぶさる。炎にまみれた柱から娘を庇うかのように。

耳元に吐息を感じた。何かを囁いた気がした。

 

そこから娘は何も覚えていない。

目覚めると毛布を掛けられて横になっていた。娘は身を起こした。関節がきしんだ。見れば地面に茣蓙を引いた上で寝ていたようだ。娘は自分の身体を見やった。服も体も煤でまみれていたが、大した怪我はしてないようだった。

振り向けば黒焦げで水浸しになった建物の残骸が広がっていた。町の人々がそれぞれせわしく動き回っている。

持ち物も、住む場所も、何もかも焼けてしまった。ただ自分の身を除いては。

手に焼け焦げた黒いものを握り締めていた。もはや形を失ってしまっていたが、娘はそれが羽根であることが分かった。羽根は炭になりはらはらとこぼれた。

あの方だと、娘は思った。私を助けた。私に、生きろと。

娘は泣いた。吹きすさぶ風は冷たい。空は白み始め、色づいた雲の切れ間から美しい朝焼けの太陽が覗いていた。

 

天狗は離れた大木の枝に乗り娘の姿を窺っていた。

全てを失ったあの娘はこれからどうなるのだろう。おれはどうすればよいのだろう。どうすればよかったのだろう。天狗は終始わからなかった。

それでもこの土地の神はきっと、大地のぬくもりで娘を抱きしめてくださることだろう。いつか天狗を癒した時のように。そう思う他ない。

 

朝陽が眩しい。天狗は天高く舞い上がった。


やよい天狗物語①へ
やよい天狗物語①へ